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NOVEL

水族館にまだつかない 

9,727 文字/1p

 

​coa/こあまにゅある

2016付きあってない沖神で、水族館へ初デートに行きたい二人のお話です。

表紙はろにさんに描いていただきました。ありがとうございます!

ガラーンガラーンと大きな鐘が沖田の顔の前で振られる。

「大当たりぃぃぃっっ!! なんとっっ、三等賞ソラチンタマ水族館ペアチケットぉぉぉっっ!!」

 かぶき町商店街組合のオッチャンはすごいテンションで叫ぶと、満面の笑みで沖田に封筒を渡す。沖田はそれを、

「あ、どーも」

 と、平らな返事で受け取った。

 

 千円以上お買い上げで一回くじが引ける、かぶき町商店街春の大感謝祭。隣のガラガラを回した私の手には、参加賞のポケットティッシュが3ヶ握られている。ここ数日分の食料を買ってしまったので、感謝祭開催期間に私がガラガラを回せる機会はもうない。

「嫌味かヨ?」

「は?」

「わざわざ隣にきて一回で当たり引くとか! それ私が行きたかったやつ!」

「隣にきたのも当てたのもたまたまだろ。俺ぁ、超能力者かなんかかぃ? ……でも、行きてぇっつーんなら、行くか?」

「は?」

「だから、これ。ペアチケットだし」

 沖田は、無表情のままチケットに視線を落としている。

 私も前方を見据えたまま。仏頂面で、微塵も動揺してないていで、音を立てないようにそっと……唾を飲み込んだ。

 

「……しょーがねーから行ってやるアル」

 溜めに溜めて、ごく不機嫌な声音で言った。

「別にお前となんか全然行きたくないけど、当てたのはお前だし、仕方ないから付き合ってやるアル。どーせ他に誘える女の子なんていねーんだロ?」

「別にてめえとなんか行きたくもねぇけど、すっげー物欲しそうな顔してるから誘ってやらぁ。当てたのは俺だし、誘えばついて来る女はごまんといるがなぁ」

 売り言葉に買い言葉、それだけだってわかってるけど、いやちょっと待て。コイツ、顔だけは芸能人並みでファンクラブとかあるんだよナ。声かけられればほいほい首輪付けられるドM女はたくさんいるかもしれない……。

 思わずギッと睨みつけると、鼻で笑われた。むーかーつーくぅぅぅっっ!!

「じゃ、明日ちょうど非番だから、車出してやる。十時に迎えに行くんでいいかぃ?」

「え、うん」

「ちったぁ、お洒落しとけよ」

 ぽんっと頭に手を載せられて、そのぬくもりはあっと思う間もなく離れた。

 

 え、オシャレ……お洒落……。

 ってことは、やっぱりこれっていわゆるひとつの……。

 

 去っていく隊服の背中を見つめながら、小さなガッツポーズを作る。

 

 キターーーーーーーっっっ!!!!!

 

 待ちに待っていたイベントが、乙女ゲー的最大のクライマックスが、やっとフラグが! クララが立ったぁぁぁっっ!!!!

 

 苦節何ヵ月(短い)の苦労が走馬灯のように駆け巡り、私は感動と達成感でしばらくそこに立ち尽くしていた(まだ何も達成してないけど)。



 

 沖田は私を好きなのだ。

 十四の私は、確たる証拠もないままそれを信じて疑わなかった。だってそうじゃなきゃありえない、あの常軌を逸した嫌がらせの数々。好きな子ほど苛めたくなる迷惑なアレ。あながち自惚れでもなかったと今でも思ってるけど、二年経った今の沖田が同じ気持ちでいるのか、最近の私には確信がなかった。

 

 かなり強引な手で地球に引き戻された。

 陸奥から連絡を受け、依頼主を聞いて、それが銀ちゃんでも新八でもなく沖田だと知ったとき、驚くほどことんと腑に落ちた。

 

 そう、こんな風に、私の意思を丸無視してそれなのに、本当は帰りたいけど帰れない意地っ張りな本心だけを見抜いて、有無を言わさぬ力技。

 沖田しかやらない。沖田しか、こんな風に私を求めない。

 腹が立つのと何かが満たされるのは同量だった。表に出た態度は、苛立ちの方だけだったけど。

 沖田が私の引力だから、それに負けて大地に足を着けてしまったのだと自分にそう言いわけして、アイツが十八のころと同じ気持ちでいることに安堵した。

 

 銀ちゃんが戻ってきて、やっと周辺が落ち着いたときは、ちょっと困ったな、と思っていた。これから沖田に猛烈アタックとかされたらどうしよう。なんかアイツの愛って重たいし、私はまだ戻ってきた日常に浸っていたかったのだ。

 けれど、心配することなんてひとつもなかった。沖田は二年前の関係を綺麗にトレースしてくれて、私たちの距離は離れも縮まりもしなかった。

 

 あり……何だこれ、拍子抜けー。

 

 っていうのが、このころの私の感想。まだ、それだけだったけど。


 

 万事屋の仕事も再開し、すっかり元の生活に戻ったころ、私は物足りなくなっていた。

 沖田は見た目だけはたいそうな大人の男になっていて、女の人からの黄色い声も「可愛い」より「かっこいい」が大幅に増えていた。

 いや、見た目だけじゃない、というのがこのころになるとやっとわかってくる。アイツは、昔みたいに闇雲な嫌がらせはしなくなっていた。町で出会えば挨拶みたいに喧嘩はするけど、十八のときみたいな、押しつけてくるような熱情を感じない。

 私が今日は気分じゃないと言えば、すぐに手を引く。いやに物分かりがよくなって、なぜかムカついた。

 

 何を余裕ぶってるんだろう。前ほど私に執着がないのかな? あんな風に連れ戻しといて今さら? でも私、全然アタックとかされてない……。

 

 沖田への気持ちがミルフィーユみたいに積み重なって、その性質を変えていく。指で押せばすぐに砕けてバラバラになるパイ生地程度の気持ちだったのに、いつの間にか、ヤツのことを考えると、ちょっとだけ甘酸っぱい気分になるという恐ろしい事態に……イチゴ層の時期に差しかかったのがこのころ。


 

 私は証拠を集め始めた。沖田が私を好きだという証拠。

 二年経ってよく見てみたら思ってたよりいい女じゃなかったわ、とか思われてたとしたら乙女のプライドがズタズタじゃねーカ! だから、探さなくてはいけない。

 

 試しに喧嘩するのをやめてみた。私たちの唯一のコミニュケーション手段が絶たれたら、コイツはどうするんだろう?

 

 結果、何も起きなかった。

 ただ単純に、沖田との接触が激減した。

 

 マジでか!? バカなのか!? お前はどこまで芋なのか!?

 

 打ちひしがれていた私に、沖田が普通に世間話を振ってきた日のことを忘れない。

 公園の象さんの滑り台の前で私たちは穏やかに、ごく普通にお話をして別れた。

 正直、ほっとした。

 それから、とても、とても嬉しかっ……

 いや、違う。やっぱりコイツ私のこと好きなんじゃねーカ! って、勝ち誇っただけデス。

 

 でもそのあと、困った一般市民の振りをして沖田に話しかけたいだけな女子に対しても、わりと親切に対応している姿を目撃して落ち込んだ。

 前はテキトーにあしらうか調教するかだったのに、何だよ、あの普通の受け答え……ってか、このあいだ私にやったのもアレと同じことなのか、と思ったら、気分はマントル層まで一直線。上がり下がりがフリーフォール並みのテンションに、我ながら苦笑いである。

 

 飽くなき探究心は、沖田が私だけに見せる反応を求めた。

 何か、何かあるでしょ? だって、お前は私のこと、そんじょそこらの婦女子たちよりずっとよく知ってるし、私だって……。

 

 沖田は、町で会って話しかけてこない日でも、私のことをまっすぐに見る。ほんの0.5秒くらい。目が合ってもすぐにそらされるその一瞬に、膨大な情報量があると信じた。

 どんなに距離が離れていても、人混みの中でも、沖田は私を見つける。

 あの昏くて紅い目は、そのときだけとても素直に私に恋を伝える。

 

 それは私の方も同じなのだと、やっと気づいた。

 沖田にちゃんと伝わっているだろうか? 私の変化も。

 遠く離れた船へ灯台の光を送るみたいに、私たちは一秒未満の邂逅を続けた。

 

 もう認めざるを得ない。ミルフィーユの層は、完璧に甘っ甘なカスタードクリーム段階だ。

 

 お前がどんな奴かを、ずっと知っていた。

 本当は誰よりも侍だと。ひたむきで一途で、バカみたいに純粋だと。

 それを知っていることが、もうお前を好きという証拠だったと、やっと気づいたけど伝えられない。

 言葉で伝えることのハードルの高さに怯えて、沖田はちゃんとこれを乗り越えてくれるくらい私を好きなんだろうかと不安になった。

 私にできることといえば、さりげなく「信号、青になってますヨ」という空気を醸しだすことくらい。

 芋侍に正しくキャッチできているのかは、あのポーカーフェイスに阻まれてちっともわからない。


 

 そ・れ・が!

 ついに今日やったんですよ私は! というかアイツが!

 デートのお誘いは告白へのジャブで、それにOKするということは仮免取得したみたいなものだって、どっかの恋愛アドバイザーも言ってたヨどこの誰だか知らんけど!

 とにかく告白されるのは、デートのときが圧倒的に多いと過去のデータが告げている(aanaan調べ)。乙女のメランコリックタイムよ、さようなら。明日から私は晴れて彼氏持ちになる!

 

 ラスボスを倒してもいないのに、もうエンディング見たみたいな気分になってランラン本屋さんへスキップする。ソラチンタマ水族館がどんなところだったか、ガイドブックで予習しようと思ったのだ。

 デートスポット100選という雑誌をめくる。

 ガラス張りのドームが海に浮かんでるみたいな水族館。

 

 実は、十四のころから憧れていた場所だ。女友達の中には、すでに年上の彼氏持ちのオマセさんもいて、そのうちの一人から見せてもらった写真の中に、この近未来的な建造物があった。ドラマみたいな恋バナとともに記憶に焼きついたその場所は、私にとって恋愛の象徴的ゴール地点になっていた。

 

 沖田がここに私を誘ったのは、たまたまチケットが当たったからだ。だけど、このドームの中で、もしくは近くにある大観覧車で、ヤツは二年分の想いの丈をぶつけてくれる、もうそれが、私の中のシナリオになっていた。

 

 ふと、隣の雑誌に目が止まる。月刊のファッション誌だ。特集は『絶対! カレシをゾッコンにするデート服はコレで決まり!!』

 

 ──ちったぁ、お洒落しとけよ。

 

 沖田の声がリフレインする。

 

 もしかして、最新のシャレオツ服を準備した方がいいのだろうか? その方が、沖田は喜ぶ……? 私、いつものチャイナ服しか持ってないけど。

 お財布の中身は見るまでもなく素寒貧だ。新しく何かを買い足すなど、とてもできやしない。それでも手持ちの服で何とか工夫する方法が書かれていないかと、ページをめくっていく。

 

 『男の子たちのホンネ! こんなファッションはドン引きィィ〜!』という特集に辿り着く。それは、IT企業だとか、出版社だとか、広告代理店だとか、イケてる職業に就いている一般男性を集めた座談会だった。

 

 『気合い入りすぎてる子は引くよね、総レースのワンピとか。ゴスロリかっていう(笑)』

 『いや、でも俺は、全然お洒落してくれないよりはマシ。洗濯しすぎて色褪せした服とかさー、擦り切れた普段着で待ち合わせに来られた時点でアウトだわ。百年の恋も醒める(笑)』

 

 胃のあたりがチクリと痛んで、雑誌を閉じる。……色褪せ、擦り切れた、むしろそんな服しか持ってませんが、何か?

 新しい服が買えないのは、万事屋が万年金欠だからいけないのであり、手持ちの服が擦り切れてるのだって、沖田とよくやり合うせいだ。つまり半分は沖田のせいなんだから、文句は言わせない。それにこの座談会の出席者には、真選組一番隊隊長という職種は含まれていなかった。大丈夫大丈夫。

 

 自分に言い聞かせながら店を出る。足音に合わせてドッドッドッと心音がして、あり、もしかして発作か? 私、心臓に欠陥があったのだろうか? と首を傾げる。


 

 緊張しているのだと気づいたのは、万事屋に帰ったあと、新八の美味しい夕飯も喉に通らなかったときだ。

 今夜のおかずが全部沖田の顔に見えて、何を箸で摘んでいるのかもわからない。

 

 アイツが……あの芋が、ドSが、チンピラチワワが、私に告白しようとしている。一体どんな顔して。どんなセリフで……!

 

 緊張するのは沖田の方で、どう考えても私じゃない。それなのに、無理やり白飯を口に押し込んだだけでえづいてしまい、私は早々に自室に引き上げた。

 布団を被ったが、一睡もできなかった。

 

 朝になってお風呂にすら入っていないことに気がつき、慌ててシャワーを浴びた。もちろん、着ていく服など選んでなかった。選ぶほどのこともないが。

 車に乗ることを考えて、スリットの深いチャイナドレスはやめる。洗濯が仕上がっていた七分丈パンツの赤い服、選択肢は、それしか残っていない。

 鏡を見て、またキリリと胃が痛む。いくらなんでも、代わり映えがなさすぎる。

 これは、緊張だけではない。不安になってきている自分を、認めるしかなかった。

 

 考えあぐねて、小物入れを引っくり返す。

 あった。

 二年前のお正月に、福袋を買ったら入っていたと言って沖田がくれた髪留め。ピンクの小さな花がずらりと並んでるやつ。もらったときは、私は雪洞派だからこんなの使わねーと思ったのだ。くれるってものは全部もらう主義だったので受け取ったが。

 鏡の前で、片編み込みにしていく。長く伸びた髪はアレンジがしやすい。それぞれのサイドを反対側の耳の下で留めて、後頭部の真ん中で髪留めを付けた。

 

 十時ぴったりにチャイムが鳴って、私は銀ちゃんが起きだしてこないうちに、急いで玄関へ行った。

「……よう」

「……おう」

 沖田は運転しやすいようにということなのか、和装ではなく白シャツに黒のスラックス姿だった。隊服ではない。多分、マフィアだったときの服だ。シンプルだけど様になっている。イケメンって得だな。

 

 なるべく沖田の視線を避けながら玄関を出たが、沖田は小さく「それ」と言った。

「まだ持ってたのか」

 髪留めを、沖田は覚えていた。

「……まあナ。せっかくだから使ってやるアル」

 それに対する沖田の答えはない。ただ、階下には覆面パトカーが停まっていて、黙って助手席のドアを開けてくれた。

 その横顔を盗み見て、胃の痛みが和らいだ。

 褒め言葉とか、絶対言わないと知っている。

 でも、その少し緩んだ頬だけで、私は充分に喜んでしまっていた。



 

「道混んでるかもしれねぇが、せいぜい一時間もありゃ着くから」

 沖田はそう言って、車を発進させた。

 

 しばらくして、重要なことに気づいた。車は密室である。しかも狭い。そして沖田は、いつになく無口だ。

「ラジオ、点けていいカ?」

 ウィンカーのチッチッチという音だけが響く車内に耐え切れなくなって、お伺いを立てる。沖田は正面を向いたまま「ああ」とだけ言った。

 チャンネルを回して、なるべく賑やかな番組を探す。懐かしの歌謡ヒットパレードがやっていて、これだと思った。話題に困ったときは芸能人の噂話がうってつけだ。

「あ、この曲、知ってるネ。ピンクレデ⚪︎でしょ? 銀ちゃんはケイちゃん派で新八はミーちゃん派アル」

「へえ」

「あ、パフィ◯! 大好きアル! ちなみに銀ちゃんはユミちゃん派で新八はアミちゃん派アル!」

「へえ」

「ああ、風◯三姉妹! 懐かしいアルゥ!」

「いや、リアルタイム放送のとき、お前地球にいなかっただろ」

「再放送で観たもん。ちなみに新八はユイちゃん派で、銀ちゃんはスケ◯ンデカより花のあす◯組! のが好きだったって」

「知らねぇ、そのドラマ」

 沖田が、投げ捨てるように言ってまた黙ったので、それ以上続けられなくなった。いや、ふだんからこんなぶっきらぼうな喋り方だ。わかってるけど、もしかしたら、気分を害したのかもしれない。

 考えてみたら、デートの最中に他の男どもの名前を連呼するのはどうなのか。今気づいてももう遅い。だって仕方ないじゃないか。コイツとの共通の話題なんて、銀ちゃんたちのことか真選組のことしかない。

 

 私が黙ったからといって、沖田の方から新たな話題を振ってくれるわけでもなく、やけに明るい歌謡曲が白々しく流れるまま、時だけが過ぎた。

 

 沖田の横顔は、いつも通りに何も考えてないように見える。けれど、不機嫌なようにも思える。そういえば、誰かが言っていた。初めてのデートで、告白も次のお誘いもなければ絶望的、あなたは振られたのです……(aanaan調べ)。

 慣れない相手といきなり遊園地には行くな。行列してる時間が長過ぎて、話題が途切れる。それって、ドライブでも同じことなのでは? 映画館もやめておいた方が無難。お互いの趣味がわからないうちに行っても、話が噛み合わずに白けてしまう。

 だったらどこに行きゃいいんだ! 水族館は正解なのかもしれない。けれど、目的地に辿り着くまでに振られそうになってる場合はどうしたらいいんだ。

 

 胃痛が再発し始めたころ、車は大きな道路を降りてゆっくりと坂を下り始めた。

「もう着いたのカ?」

「いや」

 返事はそれだけ。

 まさか、つまんないからデートは打ち切り、ここからは歩いて帰れってこと? いやまさかね……。いやいや、だけどこいつドSだしもちろんそんなこと言われたら殴り倒すけどこっちのダメージもはかりしれな

「何してんだ? 降りろよ」

 気がつけば車は停まっていて、沖田はぐるりと回って助手席のドアを開けていた。外から潮騒が聴こえる。

 慌てて車を降りると、そこは海だった。

「もうすぐそこが水族館だけど、ちょっと寄り道するぜ。帰りじゃ寒くなって寄れねーから」

 沖田は、傘を差しかけてそう言った。

「散歩するアル!」

 鼻息を荒くして宣言すると、

「そのために寄ったんでぃ」

 目を細めて笑ってくれた。

 

 振られてなかったぁぁぁっ!!



 

 春の海は少し儚い水色で、まだ空気が定まっていないような頼りなさがある。つまりそれは、春の空の色だ。

 ギラギラした真夏の海なら銀ちゃんたちと来たことがあるけど、初めての春の海は、この男と一緒でよかった。

 

 斜め先に視線をやると、同じく空の色を映したガラス張りのドームが見えて、水族館は本当にもうすぐそこだ。

 あそこがゴール、と思うだけで目眩がする。沖田ももしかして、緊張して何も喋らないのかなと思い当たって、ここに連れてきてくれたんだから、もう全部ちゃらだなと思った。

 

「あんま波打ち際に行くな、濡れるし靴汚れるぞ」

「うん」

 そう言われても、星が全部脱落したみたいな光の乱反射に気を取られて、気がつけば波打ち際の方へ吸い寄せられている。沖田がそのたびに、腕を掴んで傘の下に引き込んでくれる。

 私は、すっかりはしゃいでいた。

「楽しいアル!」

 歩いてるだけなのに。

 沖田は「そうかぃ」と言って、また微笑んだ。

 

 そのとき、目の前をピンクの鞠が跳ねていった。向こうから子どもたちが走ってくる。何も考えずに、体だけが動いた。私は自慢の俊足であっという間に鞠に追いつき、波に攫われる前にそれを拾い上げた。すみませーん、と叫ぶ子どもたちに笑顔で投げ返す。

 

「チャイナ!」

 呼ばれたけど、遅かった。

 突然、視界が泡でいっぱいになった。次に冷たい圧力が押し寄せた。大きな水の掌に掴まれたみたいになって、体が海の方へ引き込まれる。

 熱い手が、ぐっと私を反対側に引っ張った。

 波が引いていき、私は自分の状況を正しく把握した。

「……」

「……」

 ずぶ濡れのまま沖田と見つめ合う。

 ただでさえ、擦り切れて色褪せてみすぼらしかった私の服は、潮水を浴びてもうぐしゃぐしゃだ。

 

 ああ……ガラスの建物が遠のいていく。

 

 そう思ったとたん、なぜか意識も遠のいて、私はその場にしゃがみこんでしまった。




 

 目が覚めると、古い染みと目が合った。

 焦げ茶色の天井に、雨漏りなのか、大小の染みが点々と連なっている。なぜ天井の染みと目が合うんだ? それは、私が寝ているから。

 

 そよと風が入ってくる。顔を横に向けると窓が半分開いていて、狭い庭が見えた。民家が密集している場所らしく、向かいの家から尺八の音がする。それから、遠くで波の音。ここはまだ、水族館の近くらしい。だけど、服はビショビショだし、倒れてしまったし、今日のデートは失敗なのだとわかった。

 

 波を被った直後、体中に悪寒が走った。それなのに、少しばかりなら平気だと思っていた太陽光は破片のように肌に突き刺さる。同時に、ゆうべからほとんど食事を摂っていないことを思い出した。私は、そのまま貧血で倒れた。

 

 朧げな記憶だが、沖田は私を抱き上げてくれた。車に連れて帰って、常備されていたらしいタオルで頭を拭いてくれた。

 ほんの数分でここに連れてきてくれて、着替えの浴衣を出してくれた。何とか自分で着替えたことを思い出して、ほっとする。本当はシャワーも借りたかったけど、そこで力尽きて、沖田が敷いてくれた布団に倒れこんだのだ。

 

 そこまで記憶を辿ってから、起き上がる。小さな和室だ。すべての家具が使い古されて、飴色に光っている。

 沖田の姿がどこにもなくて、私は本日最大の絶望に落ちた。どれくらい眠っていたんだろう? 睡眠不足が祟って、爆睡してしまったに違いない。

 沖田は、私に呆れたのだろうか。

 

 玄関が開く音がした。落ち着いた足取りで、廊下を歩いてくる音。固唾を飲んで襖を睨む。すらりと開いて、沖田は少し驚いたように目を丸くした。

「起きてたのか。何て顔してんでぃ」

「……」

「当ててやろーか? 腹減ってんだろ?」

「へ?」

 がさりと音をさせて、コンビニ袋を持ち上げる沖田。同時に私の腹の虫がぐうぅぅ……と鳴った。


 

 沖田は、お湯を沸かしてカップ麺を作ってくれた。それと、おにぎりをいくつかと菓子パン。私は布団に入ったまま、沖田は隣の卓袱台で簡単な昼食になった。

「レストラン予約してたんだが、まあ、しょうがねぇな」

「そんなことしてくれたアルか」

「まあ、それくらいはねぃ」

 芋侍のくせに……。

 

「具合悪かったんなら、最初に言やぁよかったんだ」

 沖田がぽつりと呟いた。

「そんな無理して行く場所でもねぇだろ」

「お前にとってはそうかもしれないけど、私にとっては二度とこないようなラッキーチャンスだったネ……」

「んな大袈裟な」

「……だって、抽選で当てでもしなきゃ……」

 お前は私を誘ってくれないだロ?

 情けなくて、最後まで言わずに口を噤む。

 

 あんなオサレな場所は、私には縁がなかったのか。何でみんな気軽に辿り着いてるのか。もう二度と行けないし、告白もない……。異常なまでのネガティブ思考に陥って、私はうなだれた。

 

 だが、沖田はそんな私に構わずあっさりとこう言った。

「また来週行きゃいいんじゃね?」

「……は?」

「このチケット、一か月くらい有効期限あるから、来週が無理でもまた都合合わせれば行けるぜ。俺の非番まで待てないってなら別だが」

 言われてみたら、あまりにも簡単なことだった。

「また一緒に行くアルか?」

「嫌ならいい」

 沖田が顔をしかめたので、慌てて首を振る。

「嫌じゃないアル」

「……あっそ?」

「うん」

「伸びねぇうちに、それ食べたら」

 箸でカップ麺を指されて、思い出してやっと蓋を開ける。

 

 しばらく無言で麺を啜ったあと、沖田が口を開いた。

「ここは、近藤さんの別宅なんだ。あまり使ってねぇけど、仕事のこと忘れて息抜きしたいときに自由に使えって、俺と土方さんだけは合鍵もらってる」

「そうなんだ」

「わりといいところだろ? 小さいけど落ち着くし、海も近い」

 

 沖田は、カップと箸を卓に置いた。

「楽しくなくなっちまったかぃ?」

「え?」

「まあ、水族館には行けねーわ、ずぶ濡れになるわ、昼飯もこんなじゃなあ……。俺もこの家、てめえに教えるつもりなかったし」

「…………」

「でも、トラブルのせいとはいえ、連れてこれてよかったわ」

 沖田はそう言うと、開け放たれた窓に顔を向けた。

「ここは、俺の気に入りの秘密基地みたいな場所なんでぃ」

 向かいの家との境界線になっているピンク色のツツジを見つめながら、沖田がふっと頬を緩める。ずっと鳴っている尺八が上手いのか下手なのか、私には判別もつかないけど、音色は心地よい。そして、風が潮の匂いを運んできて、わかった。

 

「うん、私も好きアル」

 ここは、私にも良い場所だ。お洒落な場所まで辿り着けなくても、沖田の気に入りの場所を私も好きなんだから、それだけでいいんじゃないか。

「今日、めっちゃ楽しいヨ」

 そう言って笑ったら、沖田も目を伏せて笑って、

「惚れた女がそう言ってくれんなら、今日は最高の日だねぃ」

 と言った。

 

 それから、二人ともまた無言になり、コンビニ食を食い尽くした。

 お茶を飲みながら、意を決して、「またお前とおでかけしたいアル。次の休みも、その次も」と小さな声で言うと、沖田は黙ったまま、私のくしゃくしゃの髪を掻き回して、さらにめちゃくちゃにしたのだった。

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