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NOVEL

旅の行く末 

7,658 文字/1p

 

なち/なちの小部屋

2117の付き合ってない沖神です。海に行きたいと言い出した神楽ちゃんを沖田が海に連れて行くお話です。

沢山の店が並ぶ商店街を抜け、細い路地裏を真っ直ぐ進むと民家が立ち並ぶ住宅街に出る。無駄に吠える犬に挨拶をしてから横を通り過ぎた後、人気の少ない神社の中へと入る。奥へ行くと長い階段があり、それを上まで登れば狐の置物がワタシを出迎えてくれる。そこには小さな小屋が一つ。小屋の裏手に回れば崖の側にベンチが一つ。

 

「オイ、邪魔アル」

「……は?俺が先客だろうが。テメェがどっか行けよ」

 

腐れ縁にも程がある。毎日、毎日ワタシの行く場所に何故この男はいるのだろうか。何故こうもワタシの秘密のスポットをこの男は知っているのだろうか。ベンチに横たわり趣味の悪いアイマスクをするこの男。

 

「……まあ、良いアル。座れヨ」

「は?」

 

アイマスクを上にズラしとぼけた顔をする男を無視して無理やりベンチに座ると、チッと舌打ちしながらも横にずれた。

 

少しまだ冷たい風が肌を刺す。目の前に広がる歌舞伎町の街並みを眺める。

 

黙ったままのワタシが気になるのかこちらの様子を伺っているのがチラチラと視界の端に映る。

 

「なあ」

「…何」

「オマエ、車運転出来るよナ?」

「は?出来るけど」

「海行きたいアル」

「……は?」




 

窓から見える景色はどんどん移り変わり、エンジン音と小刻みに揺れる車内が眠りを誘う。

 

「おい、テメェから連れてけって言っておいて寝るんじゃねぇぞ」

「寝るわけないダロ。……zzz」

「おい」

 

何故、走る車の中というのはこんなにも眠りを誘うのだろう。

 

海に連れて行けと言うワタシに怪訝な表情を浮かべ、面倒臭いだの、この後夜勤だの言う男に何度も食い下がり、お願い!オマエにしか頼めないアル!と言うと黙った男。そこに畳み掛けるようにオマエだから頼んでるネ!と言うと、……下の神社の入り口で待ってろ。と告げ何処かへ歩き出した男の姿が見えなくなると大きくガッツポーズをした。ちょろい男アル。

 

「テメェ、何考えてやがる」

「別に。何も」

察しの良さだけは褒めてやる。

 

大きな道路をひたすら真っ直ぐ進む。正直、沖田に海に行きたいとは言ったもののどの道どう行けば海に辿り着くかは知らない。沖田の握るハンドルが本当に海に向かっているのかも定かではなかったが、何となくワタシの言う海へ向かっているのだろうと思った。

 

「……何で、海?」

不意に男は口を開いた。

 

「うーん、何となく?」

「そうかィ」

 

沖田の質問に適当に返事をした。終始無言だった車内はまた沈黙の車内へと戻った。

 

考えてみればこうやって二人で密室にいる事など今までなかった。と言うか、ちゃんと喋るのも初めてなのでは?顔を合わせば罵り合って拳を交わし、それから悪態を付いて別れる。それ以外、コイツと何かをする事など無いのだ。それくらいの関係。それ以上でもそれ以下でも無い。

 

「コンビニ寄る」

「おう」

 

沖田は器用にハンドルを操り、コンビニに駐車した。ふー、と一息吐く男に、運転って疲れるアルか?と聞くと、長時間になると疲れる、と返してきた。まだ歌舞伎町を出て三十分くらいだ。これは長時間に入るのだろうか?車から出てコンビニ内に入っていく沖田の後に続いた。ワタシが車で待ってると思ったのか後を付いてきたワタシへ振り返り、沖田は少し顔を歪めた。

 

「お前、金持ってんの?」

「持ってるアル」

「は?何で?」

「ハ?何でって、オマエ失礼アルヨ」

 

少し考える素振りをした沖田は何かを閃いた様に、ワタシに視線をやり、突然肩をガシッと掴んだ。

 

「なあ何処で盗んだ?自白すれば少しだが刑も軽くなる「違うアルッ!!パピーがこの前来た時にお小遣いくれたネッ!!」

「……なら、いいけど」

 

肩を掴んでいた手をパッと上に上げ、何事もなかったかのように買い物する男の姿に多少の苛立ちを感じるが、今は気分が良いので許してやろうと思う。



 

「サド、こんだけあったら酢昆布何個買えるアルか?」

「あ?……おい、テメェ二百円しか入ってねぇじゃねーか」

「二百円だから二個アルか?」

「ここはコンビニだからスーパーより高いんでィ。一個だな」

「えぇ!!?一個しか買えないアルか?」

「消費税があるからな」

「……じゃあ、一個で我慢するアル」

「……お前さ、飲み物とか買う気無いの?」

「それより酢昆布が大事アル」

「…あっそ」

 

ワタシは菓子コーナーから一つだけ酢昆布を手に取り、レジへと向かった。財布の中の全財産を出すと帰ってきたお釣りでは確かにもう一つは無理そうだ。とぼとぼとコンビニの出入り口から外へ出ると、少し強い日差しが肌を刺し慌てて番傘を開く。そういえば今日って天気予報で結野アナが気温が上がるとか何とか言っていたような。だけど手の中にあるのは酢昆布一つ。おまけにお腹までギュルギュルなり始めた。お昼ご飯食べてくれば良かったアル。今更後悔しても歌舞伎町からだいぶ離れた場所まで来ている。帰るまで我慢するか。

 

ピピッと車の鍵の解除音が聞こえ、助手席側から乗り込む。車のドアをバタンと閉めると同時に男はエンジンをかけた。シートベルトを掛けて何となく窓の外を見ていると、

 

「え?わわッ、何アルか?」

 

突然、運転席から飛んできた幾つもの物体が膝上に落ちてきて、慌てて下に落ちないように両手で囲む。

 

「途中で倒れられても困るんでィ」

そう一言呟くと、車を発進させた。

 

ワタシの手の中には、果汁百パーセントのオレンジジュースとおにぎりが五つ。バッと沖田の方に視線を向けてジーっと見やるが何食わぬ顔をして運転する男。ワタシが小さな声で、ありがと。と言うと、ん。とだけ返事が返ってきた。

 

何だかむず痒い。身体がポカポカするような暖かさが車内に籠り、ワタシはおにぎりを一つ手に取った。



 

おにぎりを食べ終わる頃、沖田が徐にゴソゴソし始め、何かのボタンを押した。すると車内に軽快な音楽が流れ始めた。

 

「これ、ラジオアルか?」

「いや、C D。多分隊士が聞いてたやつだろ」

「ふーん」

 

最初は流れる景色を見ながら少し耳を傾けていたが、激しめのアップテンポが流れたと思いきや、次はヒップホップのような音楽が流れ始め、最終的にはロックな曲が耳を刺激する。

 

「このC D、曲が激しいアル」

「だな」

 

正直、ここまで何曲も激しめの曲が続けば、次はどんな曲かな。と少し楽しみにしてしまっている自分がいる。激しいドラムの音で曲の終わりを告げた後、数秒後に突然、ゆっくりとしたスローテンポのバラードが流れ始め少し驚いた。

 

「情緒不安定アル」

「だな」

 

春のこの季節にガッツリ冬の用語がたくさん出てくるバラードをドライブしながら聞くのは少し違和感を感じながらも車に乗っているだけのワタシは何もすることがないのでただただその曲に耳を傾ける。



 

「……名曲アル」

「だな」

 

その曲は別れた恋人を忘れられなくて、いつまでも姿を探してしまう。といった内容の歌だった。ボーカルの声が切なく、そんな経験もないのに感情移入してしまいそうになる。

 

「そんなに好きになることってあるのかナ」

「あるんじゃねぇの」

 

思いもよらぬ返答にワタシはビックリして男の顔を見た。いつものポーカーフェイスで前を見据える男にそんな思いをした経験があるのだろうか。人に興味の無い男の恋愛とは一体…。俄然、興味はあるが何となく聞かない事にした。ただ、何となく。



 

「着いたー!!!」

 

潮の匂いを目一杯嗅ぐと自然とテンションは上がってくる。沖田が言うには江戸から一番近い海らしい。浜辺にはサーフィンをしている人や、家族連れで砂遊びをしていたり、恋人と二人で海岸沿いを歩いたりしていた。人はそんなに多くは無いがこの季節にも海に人はいるようだ。

 

「チャイナ、海には入るなよ」

「えッ!?何でアルカ?」

「びしょ濡れになったら帰りどうするんでィ」

「大丈夫ネ!これだけ暑かったらすぐ乾くアル」

「おい!」

 

沖田の忠告を無視して、靴を脱ぎ捨て海へと走った。砂浜は太陽の熱で少しだけ熱い。水辺まで近づくと一定のリズムで波が押し寄せる。そーっと足を水に近づけると勢いよく来た波に膝からしたまで濡れてしまった。今日は上下に別れたセパレートタイプのミニスカートチャイナ服を着ていた為、服が濡れることは無さそうだ。

 

海の水は思ったより冷たく、今日みたいに暑い日は気持ちが良い。足でバシャバシャと水を蹴って遊んでいると突然勢いよく来た波にびしょ濡れになりそうになって慌てて逃げる。

 

「サドもこっち来いヨ!」

 

少し離れた砂浜で腰を下ろしている沖田を呼んでみたが男は首を横に振った。ノリが悪いヤツ。寝るわけでも無く、ただワタシが水と遊んでいる姿にジッと視線を送ってくる男に少し居心地の悪さを感じる。

 

何もしないならこっちに来ればいいのに。








 

「もういいだろ」

あれからどれくらいの時間が経ったか分からないが、辺りを見回すとほとんど人は居らず空はオレンジ色に変わり始めていた。

 

「あれ?そんなに遊んでたアルか?」

「そんなに遊んでた」

 

いつの間にか近くにいた沖田はワタシにタオルを投げつけてきた。

 

「しっかり足拭けよ。組の車、汚したら土方がうるさいんでィ」

 

駐車場へと戻る沖田の後ろを付いて歩く。いつの間にか広くなっていた背中にふと年月を感じる。初めてコイツを認識した日から気づけば三年の月日が流れていた。その時間は長いようで短いような気がする。実際、二年間ワタシは地球には居なかったからトータルすれば付き合いとしては短いのかもしれない。

 

海に隣接された駐車場に着くと脱ぎ散らかした靴を拾い、近くの少し高さのあるコンクリートに腰を掛け沖田から貰ったタオルで丁寧に足を拭いていく。砂浜を歩いた時に付いた砂をしっかり落としていると、いつの間にか横にいた沖田はコンクリートに腰を預け、海を見ていた。

 

海に夕日が沈む。足も拭き終わり靴もしっかり履いていたけど、そんな風に見える綺麗な景色をどちらとも言葉を交わすことなく、只々見つめた。

 

「なあ、見て。ワタシの影がオマエと同じ高さアル。同じ身長みたいアルナ」

 

少し後ろを振り返った時に見えた、地面に映った二人の影は座ったワタシと立った沖田の影が同じ高さで身長差を感じさせられた。ワタシもこの数年で伸びたはずだが、沖田もその分伸びていたようで少しは縮まった身長差も余り以前と変わらないようだった。

 

後ろを向いていたワタシは沈む夕日を見ようと前を向き直ろうとした時、沖田もワタシと同じように後ろから前へ顔を動かしていたようで、至近距離で目が合った。

 

互いに無言のまま、視線を交わす。どちらかが前を向けば視線は逸らされるはずなのに、何故か視線を逸らせない。

 

どれくらいの時間が経ったのかは分からない。きっと現実は数秒の出来事かもしれない。だけど体感は数分、数時間にも感じた。

 

夕日が沈むのと同時に紅い瞳が近づく。それはワタシから近寄ったのか、相手からこちらへ来たのか、それともどちらから共なく近づいたのかは定かでは無いが、有り得ないこの状況に夢なのか?と勘違いしそうになるが、重なった唇の熱さが現実なのだと教えてくれた。







 

「神楽ちゃん?……おーい!神楽ちゃん!」

「へ?どうしたアルか?」

「どうしたって…、ご飯食べないの?今日はすき焼きだよ?珍しく牛肉なんだよ?もしかしてお腹痛いの?調子悪い?」

「新八、うるさいアル。母ちゃんがすぎるネ」

「母ちゃんがすぎるってどういう事?」

「食べるけど、今は何だか胸がおっぱいアル。後で食べるから残しておいてヨ」

 

手を合わせて立ち上がったワタシに驚きを隠せない男二人。

 

「え?今日神楽ちゃん何してたの?」

「知らないですよ!昼頃出かけて夕飯前に帰ってきた事しか知らないです」

「そんな情報だったら俺でも知ってるわ!つーかさっきの胸がおっぱいっていっぱいって事なのか?突っ込んでいいのか?セクハラにならない?」

 

「二人ともうるさいアル」

 

居間から出ると、まだヒソヒソ話す声が聞こえるがもう無視しよう。銀ちゃんを追い出し手に入れた自分の部屋へ入り、扉を固く閉める。そして深くため息を吐き、闇を照らす月を一晩中眺めた。





 

・・・・・





 

あれから季節は移り変わり、気づけば冬になっていた。

あの女の姿を見つけられずに数ヶ月が経っていた。

 

最初の一週間はただ避けられているのだと思った。気づけばあんな事をしてしまった自分に少し後悔はしたが、一ヶ月も過ぎればその答えは分かった。

 

「神楽?万事屋にはいないよ。エイリアンハンターになるって宇宙に行っちゃったけど」

 

街でバッタリ出会した旦那に、最近あの女見かけないですねぇと言えばその答えが返ってきた。

 

「……へぇ。いつからですかィ?」

「うーん、一ヶ月前くらいかな?旅立つ前の日だからってすき焼き用意してやったのに帰って来るの遅くて、仕舞いには胸がいっぱいだのなんだの言って全然食わなかったんだよ。そういえばあの日神楽から少しだけ潮の匂いがしてたんだけどさ、もしかして一緒に海にでも行ってた?」

「……匂い嗅ぐのは犯罪ですぜ、旦那」

「え!?そこ?匂ってきたんだって!わざわざクンクン匂ったわけじゃなくて!って沖田くん!?」

 

後ろで旦那の呼ぶ声が聞こえるが無視してその場を後にした。

 

屯所の自室に戻り、力が抜けたように畳の上に身体を倒した。

何考えてんだ、あいつ。餞別のつもりかよ。思うことは溢れる程、沢山あるが、何より何も言わずに行ったあいつが何を考えていたのかさっぱり分からない。考えても分かる筈がない。俺は考えるのを止めた。





 

冬になれば自然とあの歌が脳内に流れる。車の中で聞いたあの歌。何度頭を振っても流れて来るので受け入れることにした。

 

忘れられない。今でも姿を探してしまう。もう他の人のものなの?

そんな歌詞が流れ、女々しい曲だなと思う。

 

「おい、総悟。聞いてんのか?」

「あ、すいやせん。聞いてませんでした」

「ったく、しっかりしろよ」

 

通常の業務である市中見廻りを終え、帰路に着く途中、何かを話していた土方の言葉は全く耳には届いていなかった。

 

「今日は近藤さんがスマイルに行くのに付いて行け」

「は?何でですかィ?」

「近藤さんが暴走するのを止める奴がいねぇとあの女にどやされるんだよ」

「だからって俺ですかィ?」

「今日は誰も空いてる奴がいないんだよ」

「面倒くせ」

「任せたぞ」

「へーい」

 

適当に返事をする俺に青筋を浮かべるヘビースモーカーは煙を吐きながら屯所内へと入っていった。その後に続いてため息を吐きながら近藤の元へと歩を進めた。



 

「お妙さ〜ん!どこですかぁ〜?」

「近藤さん、もうスマイル出ましたぜ」

「えぇ!?もうちょっと遊びたかったのにぃー!!」

「いや、もうベロベロですぜ?あのまま居たら馬鹿みたいに高い酒強請られまさァ」

「お妙さんの為なら……、zzz」

「ちょ、近藤さん!」

 

俺の肩にもたれたまま夢の国へと旅立った大将に深く息を吐く。凍えるような寒さに息を吐けば白く染まり、それにも落胆する。このままここに捨てて帰るわけにもいかない。意を決して肩に回る腕に力を入れ進もうとすると、何故か軽くなったゴリラに視線をやると、

 

「屯所までダロ?しょうがないから手伝ってやるアル」

 

近藤の空いてる方の腕を肩に回し、ズンズン前に進む女を見て、一瞬夢でも見ているような気分になった。女をジッと見やると、このゴリラ捨ててもいいアルか?と問いかけてきたので、屯所まで頼まァと言うと、それでいいアルと何故か嬉しそうに笑う女を見て、やっぱり夢だと思った。


 

「ホイ!あー、疲れたネ。オマエ助けてやったんだからお茶でも入れろヨ」

「は?嫌でィ」

「オマエ!感謝の気持ちは無いアルか!?」

「……じゃあお茶一杯だけな」

 

それでいいアル!とまた嬉しそうに笑う女は夢の中だとよく笑うのかと何だか人事のように感じた。

 

女を自室へと連れて行き、食堂からコップに麦茶を注ぎ入れ部屋に戻ると、女は少し縁側の方の扉を開け、月を眺めていた。

 

「ほらよ。それ飲んだら帰れ」

「何で?」

 

何で?と問う女にこちらが何で?と聞きたくなる。

 

「屯所は女人禁制なんでィ。バレたら土方がうるせぇ」

「ふーん」

 

少し不機嫌な女。意味が分からない。

 

俺は女を無視して、部屋の隅に置いてあった鬼嫁の瓶を掴むと持ってきたコップに注いで酒を煽った。そんな俺の姿をジッと見やる女。

 

「何?」

「……オマエ、何か言う事無いアルか?」

「言う事?知らねぇ」

 

俺の返答に眉間に皺を寄せる女。分かりやすく怒っているのは分かるが、俺に何を言って欲しいのだろう?

 

すると突然、立ち上がった女は俺の胸ぐらを掴んだ。

 

「怒ってるなら怒ってるって言えヨ!」

「怒ってる?何で?」

「ワタシが何も言わずに居なくなったから!」

「別に、テメェが居ようが居まいが俺には関係ねぇ」

「じゃあ、何であの日キスしたアルか!?」

 

その言葉に俺は口を閉ざした。あの日キスした理由?そんなの知らない。気づいたら身体が勝手に動いていた。それは本能に近いようなもので、理由を聞かれてもよく分からない。

 

「……知らねぇよ」

俺はそうとしか答えられない。女の求める言葉なんて言える訳が無い。

 

「…………じゃあ、もう一回すればいいネ」

 

近づいてきた女の口元を思わず掌で抑えた。すると見る見る内に目に涙を溜まり始め、仕舞いにはポロポロと溢れた涙が俺の手を濡らした。

 

女は胸ぐらを掴んだ手を離し、口元を抑えている俺の手を剥がすとゆっくりと立ち上がった。

 

「そんなに嫌ならもう顔合わせないアル。じゃあナ」

 

背を向けた女が部屋の扉に手を掛けたその時、


 

「……何アルか」

 

俺は無意識に女の身体の背後から腕を回していた。

 

「……知らねぇ」

その俺の返事に女の身体は小刻みに揺れ始めた。

 

「泣くなよ」

「泣いてないアル」

女はクルっと身体を回し俺の方を向くと、俯きながらクククッと笑いを堪えているようだったが、声が漏れている。

 

「何が、面白いんでィ」

 

すると堪えるのを止め、フハハと笑い出した女に俺は苛立ちを隠せず顔を歪ます。

 

「オマエ、本当に素直じゃないアルナ。何で会いたかったって言えないアルか?」

「そんな事思ってねぇ」

「そうアルか。ワタシは会いたかったアル」

 

女の言葉に息が止まった。

俺に大事なことを何も告げずに、海に行きたいと言い、口付けだけ残していった女のことを考えない日は一日もなかった。なのに会いたかったって、一体こいつはどういうつもりなのだろうか?

 

「俺はテメェのおもちゃじゃねぇ」

「怒ってるなら怒ってるって言えって言ったアル」

「怒ってねぇ」

「あっそ。どっちでもいいアル」

 

ニコニコ笑う女を投げ飛ばしたくなる衝動に駆られるが、ふぅと一息つき落ち着きを取り戻す。

 

「どっちでもいいなら聞くな」

「ホントはあの日、オマエに宇宙に行くこと言おうと思ってたネ。だけど何でか分からないけど言い出せなかったアル」

 

先程まで笑っていた女は急に少し悲しそうな表情を浮かべ、そう言った。その表情に抱きしめる腕の力を強めた。

 

「だから、怒ってねぇって」

「フフ、そうアルか」

 

すると突然、女は俺から少し身体を離し、腕を俺の首に回すと触れるだけのキスをしてきた。

 

数秒、重なった唇をそっと離すと、もう一度、今度は俺から口付けた。



 

―終―

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